■東京
1914年(大正3年)、日比谷にドイツ表現派の風が吹く。
シュトゥルム木版画展覧会 大正3年、近代版画が動いた年。作曲家として知られる山田耕筰はベルリン留学から帰国後、日比谷美術館にシュトゥルム木版画展覧会を招へい、ココシュカなど多数の作品が展示されました。ドイツ表現派と日本の近代美術との深い関わりが明らかになります。
■東京
1920年(大正9年)、日本モダンデザインの夜明け。
ドイツ表現建築の旗手、ブルーノ・タウトからの刺激。 「我々は起つ。過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめ 新建築圏を創造せんがために」。1920年、堀口捨己、石本喜久治ほか東京帝国大学建築学科生6名が卒業を機に設立した分離派建築会。彼らが発表した表現派建築作品は、日本の建築表現に新しい方向性を与えました。また、日本の若手建築家達を刺激したドイツ表現建築の旗手、ブルーノ・タウト、エーリヒ・メンデルゾーンらの作品も展示されます。
■東京
1920年代のマルチアーティスト村山知義に迫る。
そして「マヴォ」が生まれた。 1920~30年代は日本-ドイツ間が、最も盛んな“交流の時代”を迎えました。東京では美術家、デザイナー、舞台美術家、建築家・・・いくつもの顔を持つ男、村山知義が出現。ベルリン・ダダと絡み合う、村山知義とその時代に焦点を当てます。
■東京
元号が変わる、写真も変わる。
日本に巡回したドイツの「映画と写真・国際展」(FIFO)」 1929年にベルリンで開催された「映画と写真・国際展(FIFO)」。日本へは1931年(昭和6年)、マン・レイやラースロー・モホイ=ナジらの作品を含む「独逸国際移動写真展」として東京と大阪で開催されました。その後、日本では新興写真が盛んに。「FIFO」出品作が多数出品されています。
■ベルリン
バウハウスで学んだ日本人留学生。
デザインの源流、ドイツのものづくり。 世界初の総合芸術学校、バウハウスでは、クレーやカンディンスキーが教鞭をとっていました。モダニズムの源流をたどると、そこで学んだ日本人アーティストたちの仕事が浮かびあがります。 |